5/07/2015

「他人の中にも自分はいる」

例えば
目標を達成しようとする人がいるとする。

それができなかったとする。

何が原因なのだろうと考えてみる。

目標が達成できない人がいて、

周りの人間がうるさくて集中できなかった。

とする。
つまり、人のせいだとする。

そうするとどうなるかというと

他人は、こちらが気になってしまって
うるさくしてしまった。という。

つまり他人は自分のせいだという。

では原因はどちらにあるのだろうか?

こういった言い合いはよくあること。
うるさくしてしまった他人が原因か
うるさくさせてしまった自分が原因か

近くにいる人は自分の生活に必要な人で
頭の中から消すことはできない。

他人も自分がともに生活をおくる
存在だから頭の中から消すことはできない。

つまり、他人が自分にうるさくしてしまった原因は
自分が他人の中で生活の一部だからであり、

自分を邪魔した原因は
他人の中の自分でもあると言える。

ではどうなるのか?結局は自分のせいなのか?
しかし、実際に自分がうるさいと感じるのは他人。
自分の中の他人が生活の一部だから無視できない存在で
結局集中できなかった。つまり自分の中の他人が原因?

他人の中にも自分はいるし、
自分の中にも他人はいる。
共存するとはそういうこと。

この矛盾こそが脳の壁。
人は自分の中の
脳の壁を認識する術を持っていない。

他人を思い通りに動かせない限り
目標は達成できないかというとそういうわけでもない。

達成できなかったのは自分のせいだという人がいる。
でも、自分は自分単体では決して存在しえないし、
他人が自分を認識もするし、自分の心を形成する意識も
他人から得た理解力や情報からでもある。

自分を形成するものは他人でもあり
他人のこころを形成する意識の源も自分たちにある。

つまり運命は変えられない?なるべくしてなる?

いつでも人は地獄に落ちれるし、天国にも昇れる。
ただ自制心や否定するこころがそうさせないだけ。
それだけ人のこころは揺れ動くものでもあり
柔軟であるとも言える。

なぜきれいごとだけでは世の中はよくならないのか。
なぜ人は悪いとわかっていて変えられないのか。

自分のせいにしたり他人のせいにしたりすることは
実は途方もなく不毛なもの。全ては共存している。
脳はその矛盾にいつまでたっても気付けない。
その矛盾が理解できないことに危機を覚えるからだ。
混乱をさけるために脳が自分を守っているのだ。

でもこの矛盾を理解しようとするこころだけが
この矛盾の中道を切り開いていく。
理解しようとした時、人は行動にでる。

行動だけが、脳の作り出す幻想に勝つ。
感情や理屈じゃなく、自分という物質のみに
意識を集中する。何もかも矛盾だらけの意識の中で、
まぎれもない結果をもたらす。

矛盾は否定する感情から始まる。
否定をやめ、全てを肯定すれば矛盾は消える。

ありえるから全てありえる。
ありえないから全てありえない。

他人も自分も究極は一つ、何もないともしえるし
他人も自分も存在するとも言える。

この世の中何も決定することができないとも言えるし
できるとも言える。

他人が自分の行動を制限するとも言えるし
自分が他人の行動を制限しているとも言える。

世界を脳の思い通りにはできない。
できることは

体を動かすことだけ

こころの目的はなんなのか?
いき続ける目的はなんなのか?
こころが何も求めなくなったら
その人は死んでいるのか?

他人は思い通りにできないしできるとも言える。

全ては曖昧

目的は何によって決められる?
すべて雁字搦めに交差している。
しかしすべて無視できる。

結局
すべての答えは頭の中にはない。
頭の中は捉え方でいくらでも変えられる。

答えが出る。世界が動くのは行動のみ。

全人類がこころという集団錯覚で
自分がここにいるという幻想を夢見ている?

脳は行動するために使った時こそ
本当の力を発揮する。
夢が達成できなかったのは
誰のせいかなんて
いくら考えたって
何も答えは出ない。
幻想で遊んでいるだけ。

考えてればいつか救われるという
なんの根拠もない安心感に逃げているだけだ。

目的のない「考える」は本当に無意味なことだ。
ただ、人は考えることで楽しむイキモノ。

どちらが楽しいか?という目的で考えた時。
その幻想は意味を持つ。

安心感ではなく楽しい方を選ぶ?
そっちの方が人間らしい?

他人の中に自分はいないとも言える。

 

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